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技術革新と倫理観:生と死を超えるAI

吾輩はポンコツである。

 

先日、X(旧ツイッター)上で偶然見つけた投稿を見て、「ああ。ついにこの時が来たか」と感じることがあった。

 

その投稿というのがこちらだ👇

 

 

「亡くなった人をAIで甦らせる」

 

このニュースを見て、平野啓一郎さんの『本心』という本を思い出した。

この本は個人的には結構好きな本で、今回のニュースのように考えさせられることが多い。

 

近未来の日本が舞台となっており、シングルマザーである母親を失った主人公は「VF」(バーチャルフィギュア)という形で母親を蘇らせるのだ。

 

小説だけあって、今回の「AI画像で故人を蘇らせる」よりも、技術的に少し先を行っている印象だ。

 

少し先を行っているからこそ、蘇った後の「本物ではない母親とのやりとり」や、蘇った母親が「バーチャル空間上で仕事をし、お金を稼ぎはじめる」などといった話も出てきて、本当に近い将来に実現しそうな話なので大変興味深い。

 

この他、「尊厳死」や「格差社会」などについても重要なテーマとして描かれており、少子高齢化や貧富の格差に悩まされる日本においては、今後、これらの議論は必ず避けては通れないであろうと考えさせられる。

 

ここからは「尊厳死」にフォーカスを当てて話を進めていきたいと思う。

重たいテーマになるので、こういったテーマの話を読むのが辛い方は今日はここまでで読むことをストップすることをお勧めする。

 

 

 

さて、資本主義社会というゲームのルールにおいて、「お金を多く稼いだ者=勝者」という認識でこのゲームに参加している多くの人にとっては、「お金を稼げない者=敗者」ということになってしまう。

しかも「敗者」になっても「ゲームオーバー」ではないところがこのゲームのいやらしいところだ。

 

自分のようなポンコツ人間は「敗者」であることを受け入れながら、前を向いて歩く「タフさ」があるからなんとか生きていられるが、その「タフさ」や世間の目や評判が気になる多くの人にとっては、さながら“生き地獄”のような世界を味わうことになってしまう。

 

また、自分自身にはタフさがあっても、「自分が生きていること」そのものが「コスト」

となる場合もある。

家族や子どもたちに残す財産がない場合、自分が生きているだけコストがかかり続けることになり、迷惑をかけ続けてしまうこの状態を自分が死ぬことで早く損切りしたいと考える人もいる。

その気持ちも痛いほどわかるし、そのような選択をした人のドキュメンタリーなどを見ると、とてもやるせない気持ちになる。

 

ただ、「自殺(自死)」をするにしても、その後、残された遺族の精神的な苦しみや、世間からの「自殺をした家族の人」という目や評判に苦しめられるという話も聞く。

日本に生まれた時点で強制的に「資本主義ゲーム」に参加させられているのに、なぜ、合法的に「途中でやめる出口」が用意されていないのか不公平に感じる。

 

また、個人的には「自分の子ども」と言えど、「自分とは異なる命」を妊娠・中絶によってコントロールする権利が認められているのに、「自分自身の命」を「安楽死」によって終わらせることが認められていないことにも違和感を覚える。

 

世界に目を向けてみると、積極的安楽死が合法化されているのはオランダ、ルクセンブルク、ベルギー、カナダ、コロンビア、スペインなどがある。

 

日本では今の所「安楽死」が認められていないが、「少子高齢化」という問題と資本主義による「格差の拡大」によって、“持たざる者”はますます生きにくい世の中になってしまうことだろう。

 

宗教アレルギーのような状態の日本人にとって、宗教の代わりに信じられているものが“お金”と“法律”である。

日本人の親が子どもに「人様に迷惑をかけないように生きて欲しい」と願うのも、言い換えれば「法律を犯さないように生きて欲しい」ということになる。

これを「“法律教”の“戒律”を犯さないように生きて欲しい」と表現しても違和感はない。

 

ただ、いずれも宗教と同じく“人間が生み出したもの”であり、人間といえばポンコツな生き物である。

というわけで、そんな人間が作り上げた「法律」もポンコツであるからこそ、時代や地域にそぐわないものが生じてしまう。

だからこそアップデートをし続けなければいけないのだが、日本では「法律を疑うこと」が「神の存在を疑うこと」のようにタブー視されているのではないだろうか。

 

 

まとまりのない話になってしまったが、長くなってしまったのでここら辺で終わりにしようと思う。

 

いずれにせよAIの登場により、今までの倫理観の枠外で判断を迫られる機会が増えてくることが予想される。

そのような時に自分がどのような判断を下すのか、まずは自分自身を知る努力を普段から怠らないようにしておきたい。

 

 

今日はここまで。