ポンコツですけどなにか?

ポンコツのポンコツによるポンコツのためのブログ♪

出世と多様性:ポンコツの視点

吾輩はポンコツである。

 

さて、久しぶりの記事の更新である。

 

年始に新しくこの「ブログをやる!」という目標を立てたものの、早速1週間以上も更新をサボってしまうあたりがポンコツらしいところである。

全く自分のこういうポンコツなところが愛おしく感じる今日この頃である。

 

まぁ、それなりに忙しくも充実した日々を送れているということだろう。

 

それはそうと、久しぶりに会社の人たちと一緒に「飲み会」に行く機会があった。

同じ会社でも、所属する部署や、配属される営業所が異なれば、なかなか顔を合わせることはないのである。

 

今回の「飲み会」では、そういった普段会うことのないメンバーばかりの集まりだったので、新鮮な楽しさがあった。

 

なかには、「ポンコツブログを読んどるよ!」という、ありがたい声をかけてくれる人もいて、そんな声を聞くとこんなポンコツな自分でも、「多少なりとも人を楽しませることができとるんかも!?」と少し自分を褒めてあげたい気持ちになった。

 

出席した全員と話せた訳ではないが、ひとつの会社にもそれぞれいろんな考えの人がいて、自分のようにポンコツな人もいれば、バリバリに頭のキレる人もいるものだなぁと感心することもあった。

 

また、仕事を楽しんでいる人もいれば、辛くてしょうがないと感じている人もいたし、

悩みを抱えている人もいれば、あまり気にしないタイプの人もいた。

 

このように、それぞれ抱えている感情や状況は異なる人たちが、ひとつの会社という枠の中で一緒に働いているということが改めて面白く感じた一日だった。

 

 

さて、「多様性」という言葉がよく使われるようになったが、最近では自分のような会社員が感じる“働きがい”というものや“モチベーション”なんかも多様化してきているように感じる。

 

「辛くても、ここで頑張れば給料が上がる!出世につながるぞ!」

 

といった言葉で“やる気”が出る社員は昔は多かったのだろうが、現在はこのような言葉ではやる気を出す人間はむしろ珍しいぐらいになっているように感じる。

 

そもそも職場における「出世」という言葉自体が現代社会にマッチしなくなっているのだろう。

 

現在使われている「出世」という言葉は「周りの人より上の立場になる」という解釈でおおよそ間違いないと思う。

 

このような階級を分けて人間を統治するのは、昔の武家社会や公家社会、軍隊においてなど、「上からの指示が絶対!」といった社会では機能するシステムだが、現代においては「あいつより自分の方が上」とか「あの人より自分は下」といったような他人と比較する考え方自体が「多様性」を尊ぶ現代とアンマッチを起こしているのだと感じる。

 

むしろ、現代において「役職とは役割である」ということを認知できていなければ、役職者もその部下となる人もお互い非常に苦しくなってしまう。

 

その人がその「役割(ポジション)に適しているからそこにいる」という状況を野球で考えた場合、「サードよりショートの方が上」や、「ピッチャーよりバッターが上」みたいな考え方はしないと思う。

 

また、それぞれが違う音色を奏でる集まりのオーケストラが、一つの大きな川の流れのような美しい音楽となって自分たちの心を揺さぶるのも、「オーボエよりチェンバロの方が上」みたいな考え方をしていないからではないだろうか。

 

このように、「役職とは役割である」ということが理解できていれば、それぞれが「自分が何が得意でチームに貢献できているのか」、また「何が不得意で他のメンバーに助けてもらう必要があるのか」といったことを考えてチームにとっての最適な役割を演じることで、お互い助け合いながら得意を生かし不得意を補完し合う組織になっていけるのだろう。

 

「役職とは役割である」ということを理解せず、「部下よりも上の人間である」ということを誇りに思っているような軍人のようなリーダーの場合、自分自身に過剰にプレッシャーをかけてしまったり、有望な若手の存在に危機感を抱くことになり、人の手柄を横取りするようなことなどが起きてきてしまう。

 

「みんなちがってみんないい」と、今から100年ほど前に生きた大正時代の詩人である金子みすゞさんの言葉が、大正時代以降の革命と戦争の大変革の時代を超えて多くの現代人の一般的な考え方になっているのも興味深い流れだと思う。

 

 

ああ、長々と真面目な話をしてしまったが、そもそもポンコツである自分には出世とは無縁の人種なので、知らず知らずのうちに「ルサンチマン」的なニュアンスも入ってしまっているのかもしれない。

 

ただ、そもそもの「出世」という言葉は、どうやら仏教用語の「出世間(しゅっせげん)」という言葉が由来になっているらしい。

 

「出世間」とは、「煩悩に満ちた俗世間から超越して悟りを得ること」を意味し、また、「仏陀が民衆を救うためにこの世に出現すること」を意味することもあるとのこと。

 

どちらかというと「出世競争」などという俗世間の“しょうもない競争”とは真逆の意味合いなのである。

 

その後、仏教の僧の中でも階級が生まれ、上の階級に行くことを「出世する」と言い始めたことが今の「出世」という言葉の使われ方になっていったようだ。

 

ある意味「多様性」を重んじる多くの現代人にとっては、「出世」の本来の意味の方を好み人も多いのかもしれない。

 

少なくとも自分のようなポンコツ人間は、現代の「出世」というところから「離脱」できている分、「悟りに近くなっているのだ!」と自分を励ます材料として「出世」という言葉の由来を覚えておきたいと思う。

 

 

今日はここまで。