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エピクテトスの名言から学ぶ「自分らしく生きるたまに必要な覚悟」

吾輩はポンコツである。

 

本日は、最近の自分にピンときた名言を記録しておこうと思う。

 

今回記録しておく名言はこちら👇

 

成長したいなら、まわりから愚かで間抜けだと思われることをよしとしなくてはならない。   ——エピクテトス

 

この名言を見つけたとき、思わず

 

「これなんだよなー。」

 

と、しみじみ呟いてしまった。

 

 

多くの人にとって、周りの人から

 

「愚かで間抜け」

 

と思われることは避けたいことだろう。

 

自分も今でこそ“ポンコツ”であることを自認し、自称するようになったが、それまでは無駄に大きすぎるプライドを背負って生きてきた。

 

そんな頃の自分にはこのエピクテトスの名言は全く刺さらなかったのかもしれない。

 

まわりから「デキる人」と思われたい。

→「デキないヤツ」と思われたくない。

 

まわりより「優れた人」だと思われたい。

→「ダメなやつ」だと思われたくない。

 

まわりより「役に立つ人」と思われたい。

→「使えないヤツ」だと思われたくない。

 

 

当時の自分の頭の中は、このような思考に支配されていたように思う。

 

しかし、これはプライドでも何でもなく、ただ単に「自信がない」ことの裏返しだったということが今になってようやくわかるようになった。

 

まぁ、自分も歳をとったということだろう。

 

 

こんな風に思うこと自体は自然なことなのかもしれないし、それが悪いとも思わないが、あるときにふと立ち止まって自分をかえりみたときに

 

「あれ?これって自分の人生を生きていると言えるのか?」

 

といった疑問を感じた。

 

 

そもそも自分はまわりとの比較に勝たなければ、存在を認められないのか?

 

まわりから「デキる人」や「優れた人」と思われたとしても、自分自身は自分のことをどう思っているのか?

 

自分はまわりの期待に応える人間になりたいのか?それとも自分が「こうありたい」と思う人間になりたいのか?

 

 

これまでも「自分らしく生きている」と実感して暮らしてはいたが、まわりからの評価を気にしすぎていることで「自分らしさ」というものがわからなくなっていった。

 

自分ってどんな人間になりたかったんだっけ?

 

お金持ち?成功者?偉い人?

 

どれも悪くないが、何か違う。

 

 

そうだ!

 

自分が“本質的に”なりたかったのは

 

——「面白い人」だ!——

 

 

そう。

 

自分は「あの人は面白い人だ」と言われることに喜びを感じる人間だったのだ。

 

 

自分が死んだとき、自分は愛する妻や子どもたち、お世話になった方々、気心のしれた気の良い仲間たち全員からこう言われたい。

 

「あの人は(アイツは)面白い人でした」と。

 

その言葉は自分にとっては他のどんなお経よりもありがたいものである。

自分の葬式に来てくれた人にこう言ってもらえると、喜んで成仏できることだろう。

 

 

そうは言っても、人間いつ死ぬかわからない。

 

自分の知らないところで病に侵されているかもしれないし、道を歩いていると落雷によって自分でも気づかないうちに死んでしまうという可能性もある。

 

「面白い人間に“なりたい”」と言っていると、仮に今死んでしまったらその目標が達成できずに終わってしまう。

 

だったら「面白い人間で“ありたい”」に目標を変更し、現時点から常に面白い自分であるための生き方を選択しよう。

 

そう考えてからようやく本当の意味で「自分らしく生きる」ということが理解できた気がした。

 

 

話が長くなってしまったので、冒頭でご紹介した本日の名言を忘れてしまった人もいるかもしれない。

 

なので改めて見直してみよう👇

 

『成長したいなら、まわりから愚かで間抜けだと思われることをよしとしなくてはならない。』

 

自分はこの言葉を見たとき、

 

「成長したいなら」の部分は「自分らしく生きたいなら」に置き換えられると感じた。

 

なぜならば、「成長」の方向は、自分の目標とする方向の延長線上になければ主体的に人生を生きられないからだ。

 

そう考えてみると、まわりからは「愚かだ」「間抜けだ」と思われたり、「効率が悪い」「理解できない」と思われる選択や生き方をすることは、自分らしく成長していく上では避けては通れない道なのだと思える。

 

 

この名言は、

 

「成長するためには、人前で恥をかくことを恐れるな」

 

といった教訓として受け止めることもできるし、実際はそのような意味で発せられた言葉なのだと思う。

 

そういう意味でももちろん共感できるのだが、自分にとっては「自分らしく生きる」上での覚悟を持たせてくれる言葉として胸に響いてきたことをここに書き記しておきたい。

 

 

 

今日はここまで。