ポンコツですけどなにか?

ポンコツのポンコツによるポンコツのためのブログ♪

アラフォーポンコツ会社員の頭のなか


吾輩はポンコツである。

 

吾輩の好きなYouTubeのチャンネルで「コテンラジオ」というものがある。

www.youtube.com

 

歴史だけでなく、宗教や思想家についても取り扱ってくれることも多いので、吾輩の興味にドンピシャの内容になっていて大変有難い。

 

先日アップされた動画(とはいえ音声のみ)を聞いていて共感した部分があったので、そのことについて書いてみたい。

 

動画の内容としては“老荘思想”について考えるものであり、現代社会において“無為自然”の生き方ができるのかなどといった内容だったと記憶している。

 

無為自然

作為がなく、自然のままであること。「無為」「自然」は共に「老子」にみられる語で、老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。

デジタル大辞泉

 

その中で、出演者の一人が語っていた話に納得した部分があったので、吾輩の頼りない記憶を手繰りながらテキトーに振り返ってみたい。

 

その人が語っていたのが、

「昔は納得できないことに対して反発心を抱き、それが行動のエネルギーになっていた」

「俺は凄い!みたいなのを見せつけたかった」

という、エネルギーややる気に満ち溢れていた頃を振り返っていたのだが、現在は全くと言っていいほど「満足」して暮らせているとのこと。

 

そう思えるようになったのは子どもが生まれてからのふとした瞬間に幸せを感じられるようになったからなんだそうだ。

話の中では具体的なエピソード(河原でお月見をしたこと)が語られ、「今がまさに幸せで満ち足りている」と感じられたことで「世間や社会を変えてやろう」という意欲が衰退してきているといった話だった。(と記憶している)

 

話を聞きながら

「まさに“足るを知る”ってこういうことだよなぁ」

とか

「“幸せ”って外から与えられるものではなく、自分の日常に見つけ出すものなんだよなぁ」

なんてことを思いながら、「そういえば自分も随分変わったよな〜」なんて昔の自分を思い返していた。

 

吾輩の若いころ(保育園〜社会人になってしばらくの間)なんて、なんでも自分がナンバーワンじゃないと気が済まないような人間だった。

 

自慢じゃないが、勉強も運動も人並み以上にはできたし、人懐っこいキャラクターもあって常にクラスの中心にいるような人間だった。

 

小さな頃から学級代表をやるのは当たり前、サッカー部ではキャプテンや背番号10番を背負って活躍し、周りから信頼されたりチヤホヤされるような生き方をさせてきてもらえた。

 

当時は「自分が特別だからだ!」と、下手をすると『罪と罰』に出てくる「ラスコーリニコフ」のような偏った思想になってしまいそうな人間だったかもしれないが、大人になってようやく親や先生、友人達に恵まれてきたからだと心から感じるようになった。

 

そんな自尊心バリバリの世間知らずナルシスト街道をひた走っていた吾輩だったが、今では立派な「ポンコツ社員」になっている。

 

  • 見た目は流行などお構いなしの坊主頭の中肉中背アラフォーおじさん
  • 会社では出世とは無縁のポジション
  • そもそも会社員としてのセンスがない

 

当時の自分が今の吾輩を見てなんと思うか気になるところである。

 

世間では“脂の乗ってくる年齢”といわれる年齢に突入しているのだが、これは仕事が出来る人に使う言葉であって自分の場合はそのままの意味で内臓脂肪を蓄えるだけの年齢になってしまっている。残念。

 

しかし、そんな現在の生き方を吾輩がどう思っているかというと、これが不思議と“割と満足している”のである。

 

もちろん不満や悩みはしっかりとあるのだが(家庭にはない)、それでも「まぁいっか」と思えるのはやはり家族や社内の理解者に恵まれているからだと思うのだ。

 

昔のような「自分は凄い!」と周りに思ってもらいたい願望は衰退し、そのおかげで自分の実力以上に自分を大きく見せようとすることもなくなり、自然体で肩の力を抜いて過ごせる時間が増えてきたように思う。

 

ただ、「ポンコツのままでも毎日1ミリでも成長したい」という思いと、「会社からお払い箱になった時のためにも自分の市場価値を上げておきたい」という“背水の陣”的な考えもあり、現状に甘んじることなく生きていかなくてはならないのである。

 

自分のこと以外でも「会社を変えたい!もっと良くしたい!」という熱い思いがるのだが、取るに足らないポンコツ社員が一人で喚いたところで何かが変わるわけでもないと思うようになってきた。

これぞまさに“学習性無力感”というやつだろう。

 

このように、なにかに挫折した人間にとって「足るを知る」という教えは確かに救いになってくれるとは思う。

 

しかし、歴史を動かしてきたのはその言葉に甘んずることなくもがき続けた人間がいたからこそだとも思う。

 

日本は学校教育で“優等生”を産みすぎてしまったのではないだろうか。

 

——文句も言わず、言われたことをそつなくこなす優等生———

 

吾輩も「足るを知る」という言葉は大好きなのだが、それと同様に「足りているからこそ分け与えることができる」という考え方も好きだ。

 

入社して間もない頃は、本当に生意気な考え方をしていた。

 

具体的には

「自分は見た目もキャラクターも恵まれているのだから、普通に仕事したら周りよりも良い成績を出すのは当たり前。自分が普通の成績しか出せないのなら、それは自分の努力が足りないということ。」

という、今では恥ずかしくて穴があったら入りたいような考えで生きていた。

 

ただ、この恥ずかしい考え方も「足りている部分があるからこそプラスを生み出せる」という考え方だったんだなと気づき、若い頃の自分も自意識過剰気味ではあるがやはり吾輩らしくて愛おしく感じるのである。

 

今は見た目も中肉中背で坊主頭の普通?のアラフォーおじさんだ。

 

今の吾輩に足りている部分は“見た目”や“能力”などではなく、「家族仲が良い」ということで気を煩わす要素が家庭にはないことや、「精神的に安定している」ことだと思う。

 

これらを基礎として考え、ここから「誰に」「どのように」「どんな」プラスを生み出すことができるかしっかりと考え、実行に移していくことこそが今後の吾輩の人生を大きく左右してくるのだろう。

 

以上、「なーんてことを考えてました」という報告終わり。

 

 

 

今日はここまで。